
ジュリオ・ロマーノ
ジュリオ・ロマーノ(1499頃〜1546)
Giulio Romano
ローマに生まれ、ラファエロの弟子となって教皇庁で働き、大構図の構想方法と画面を満たす人体の情念表現を学び、君主の宮廷芸術家としての素地をもっていた人物。
1524年にマントヴァに招かれ、イザベッラ・デステの息子フェデリーコ・ゴンザーガ公の宮廷で、新しいタイプの宮廷芸術家として活躍した。宮殿(パラッツォ・デル・テ)や庭園の造営、その内部装飾を引き受けて宮廷で高い尊敬を受け、その娘は貴族マラテスタ家と縁組みしている。「王侯のような」暮らしをし、生前の権威は高く、残された遺産も莫大だった。フェデリーコの死後、摂政をしていたゴンザーガ枢機卿は、マントヴァの主人はジュリオだと言った、とも伝えられる。
フェデリーコは新奇(ビザール)を好み、正統的なものより変わったものに美を感じる、16世紀君主だった。カール5世より公国称号を受け、政略結婚をするなど政治的な人間だったが、人妻イザベッラ・ボスケッタとの快楽のためにパラッツォ・デル・テを建造するなど欲望にも忠実だった。
Giulio Romano
ローマに生まれ、ラファエロの弟子となって教皇庁で働き、大構図の構想方法と画面を満たす人体の情念表現を学び、君主の宮廷芸術家としての素地をもっていた人物。
1524年にマントヴァに招かれ、イザベッラ・デステの息子フェデリーコ・ゴンザーガ公の宮廷で、新しいタイプの宮廷芸術家として活躍した。宮殿(パラッツォ・デル・テ)や庭園の造営、その内部装飾を引き受けて宮廷で高い尊敬を受け、その娘は貴族マラテスタ家と縁組みしている。「王侯のような」暮らしをし、生前の権威は高く、残された遺産も莫大だった。フェデリーコの死後、摂政をしていたゴンザーガ枢機卿は、マントヴァの主人はジュリオだと言った、とも伝えられる。
フェデリーコは新奇(ビザール)を好み、正統的なものより変わったものに美を感じる、16世紀君主だった。カール5世より公国称号を受け、政略結婚をするなど政治的な人間だったが、人妻イザベッラ・ボスケッタとの快楽のためにパラッツォ・デル・テを建造するなど欲望にも忠実だった。
ジュリオ・ロマーノは、「保守とビザール」という君主の趣味に完全に応えている。宮殿の内部装飾の主題は「エロスの栄光化」。「プシュケの間」はラファエロのヴィッラ・ファネルジーナの装飾(ガラティアなど)を誇張した様式で、夜景の黒(ヴァザーリは黒いマニエラと言っている)と天井画の仰視法には、強烈な反古典主義がみられる。姑ヴィーナスの憎しみを受けるプシュケが主題だが、イザベッラ・デステの憎悪を受けるイザベッラ・ボスケッタを表している。愛欲の世界が神々の姿で表現されている。
有名なのが「巨人族の間」。四大元素の崩壊で部屋が崩れ落ちるような装飾は、マニエリスムの奇想の極致を示しているとされる。一方、ゴンザーガ家の栄光を讃える君主的・政治的寓意を読み取る研究者もいる。
世界美術大全集15 マニエリスム 人物略歴
ジュリオ・ロマーノ
「プシュケの間」の装飾 モノクロ
1528〜30年 フレスコ
イタリア マントヴァ パラッツォ・デル・テ
有名なのが「巨人族の間」。四大元素の崩壊で部屋が崩れ落ちるような装飾は、マニエリスムの奇想の極致を示しているとされる。一方、ゴンザーガ家の栄光を讃える君主的・政治的寓意を読み取る研究者もいる。
世界美術大全集15 マニエリスム 人物略歴
「プシュケの間」の装飾 モノクロ
1528〜30年 フレスコ
イタリア マントヴァ パラッツォ・デル・テ
